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御立場道

先に〈鷹匠橋〉を紹介しましたが、今回はそれにつづく「御立場道」です。昭和8年発行の滝野川町誌には、コラム記事として以下のように記載されています。 『御立場道跡:今の省電駒込驛の東口から、中里の聖學院赤門前へ出る道で、将軍の鷹狩には、この道か...
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鷹匠橋

鷹匠橋とはどこに架かっていた橋でしょうか? 滝野川町誌(昭和8年発行)には、谷田川(谷戸川)にかかっていた橋として、7つの橋が紹介されています。現在の北区中里には、「鷹匠橋」という幅1.5間、延長1.5間の木造の橋が架かっていました。現在で...
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小名

江戸時代の滝野川・巣鴨・駒込界隈の旧小地名 巣鴨・駒込・滝野川界隈には、新編武蔵風土記稿によると以下の様な小名がみえる。 ・滝野川村谷津(ヤツ)、北山、押外戸(ガイト)、馬場、宮ノ下、谷畑(ヤハタケ) ・西ヶ原村貝塚、橋戸、上の臺、殿の上、...
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十条跨線橋

東北線旧荒川橋梁 十条跨線橋は、明治 28 (1895) 年に架設された東北線旧荒川橋梁の四連トラス橋(複線100feetポニーワーレントラス(Warren truss)構造橋、英国コックレーン社製)の一連を昭和 7 (1932) 年の下十...
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富士見橋

富士が見えた橋 富士が見えた坂は、富士見坂、橋から富士が見えれば富士見橋。人は富士が見えれば富士見< >と名付けた。 田端に住んでいた室生犀星は富士山と云う次の様な詩を読んでいる。その詩集の序文末尾には「大正11年1月21日 田端にて」とあ...
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義家伝承

源義家 北区上中里の平塚神社には、社殿裏手に甲冑塚と呼ばれている塚があります。その塚には、以下の様な源義家にまつわる伝承が残されています。 平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ...
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駒込神明町

現在の町名は、本駒込。昭和41年(1966)までこの町名はあった。駒込の総鎮守である天祖神社の旧称である神明社から名づけられている。かつてこの街には三業地があった。佐多(田島)稲子が女給をしていたというカフェ紅録もこの神明町にあった。 大正...
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生産品展覧会

滝野川町制20周年記念 昭和7年8月、滝野川町制20周年記念として、滝野川尋常高等小学校・滝野川町役場の2か所にて行われた。「滝野川町誌」(昭和8年)をみると、第一会場は30余の教室を使い、町所産の各種工業製品が展示され、第二会場には、美術...
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王子三業地

明治時代以降、王子周辺に設けられた会社や工場、軍の関係者で王子の盛り場を支え、大正時代には、王子の料理屋街は二業地として大いに賑わっていた。 昭和3年(1928)、王子二業地は東京製絨(せいじゅう)会社の跡地(現豊島一丁目)への移転を機に三...
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道灌山隧道

駒込駅-田端駅間にあったトンネル 山手線の駒込駅-田端駅間にあったトンネル。総延長12m。現在埋め立てられている。田端中学校前の法面にわずかに抗門の肩の部分が地表に現れている。
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