駒込神明町

現在の町名は、本駒込。昭和41年(1966)までこの町名はあった。駒込の総鎮守である天祖神社の旧称である神明社から名づけられている。かつてこの街には三業地があった。佐多(田島)稲子が女給をしていたというカフェ紅録もこの神明町にあった。

大正9年(1920)に花街の指定地制度が確立したのを受け,翌10年(1921)に根岸・五反田,同11年(1922)に森ヶ崎・尾久・駒込・大木戸・新井・大塚・十二社に指定が下りる。駒込のように大正末まで東京の郊外であった地域は、土地の発展を期待して指定の出願が地元から起こっている.

※ 「近代東京における花街の成立」

市街電車上野-護国寺線の「神明町車庫前」下車、北へ二丁ばかり入つたところで、本郷区駒込新明町の一廓。省線電車ならば「駒込驛」下卑、駒込橋(陸橋)の袂から先に折れて約三丁。四谷大木戸よりもー年早く、大正十年頃に生まれた新花街できた當時はまだ後ろは一面の田圃であつた、大震災の余燼も享けてゐるには相違ないが、この短日月の間に北部山のっかりと地盤を築き上げてしまつた発展ぶりは、兎に角眼ざましいとせねばならね。現在芸妓屋 五十四軒。

芸妓 釣一50名、幇間 三名。料理店 二十軒。待合 約六〇軒。虫なる料亭 伊豆榮、米なか、次郎長、朝鳥。伊豆栄は池の端の分店で特色は勿論うなぎ.次郎長はおでんを十八番としなかく甘く食はせる。主なる待合 常の家、辰巳家、嬉野等が主づ代表的な家であるが、二流の上どころで春村なども遊び心地がいいと評判されてゐる。

「三都花街めぐり」(松川二郎)
天祖神社境内の三業組合寄進による石垣

また、少年時代を北区中里で暮らしていた渋沢龍彦は、その当時の模様をちんどん屋の思い出と共に次のように記している。

父の転勤とともに東京に出てきて、滝野川中里に住むようになつたのが昭和七年である。

そのころ、私の住んでいる界隈にチンドン屋がやってくるのは、きまって駒込神明町の方面からだった。三流芸者街があって、寄席があって、カフェやバーがあって、さらに少年の目から見ると、電信柱に花柳病科の医院の広告がやたらに目につくところ、それが神明町だった。

ときどき旅まわりの芝居がかかって、そんなときにはリヤカーに太鼓をのせ、メーキャップした剣劇の役者がドンドコドンドコ太鼓をたたきながら、中里のほうまで触れてまわる。チンドン屋というのは、そういうあやしげな場所から忽然として出現してくるストレインジャーのように私には思われたものだ。

・・・(略)・・・

神明町の市電の通りには、日活映画のセカンド上映館であった進明館と、その先には動坂松竹館という、二つの映画館があった。「いかにも場末じみて幟を立てた映画館」と中井英夫が書いているが、まったくその通りで、二階のいちばん前には畳が敷いてあり、観客はそこで下駄をぬいで坐って見るのである。いちばんうしろには臨官席がある。

「私の少年時代」(渋沢龍彦)
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