義家伝承

源義家

北区上中里の平塚神社には、社殿裏手に甲冑塚と呼ばれている塚があります。
その塚には、以下の様な源義家にまつわる伝承が残されています。

平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。

近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。

さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。

『平塚神社の略縁起』

このような源義家やその父である源頼義にまつわる伝承が関東から東北にかかけて各地に多く残されています。神社の縁起に掛かる伝承も東京都内での源頼義・義家の縁起を持つ神社の数は「全国神社名鑑」などから数えると以下のようになります。

足立区 3、板橋区 2、大田区 2、北区 3、品川区 2、新宿区 3、杉並区 2、世田谷区 4、台東区 3、中央区 1、中野区 3、練馬区 2、文京区 1、 府中市 1、あきる野市 1、八王子市 2、日野市 1、町田市1、みずほ町 1

夢七雑録 前九年後三年役と社寺の縁起」より

さらに、神社に限らず東京都内で主だった<義家伝承>を探ってみますと、次のような多くの伝承が今に伝えられています。

●戦勝祈願・石清水八幡の勧請/六郷神社/大田区東六郷3-10-18
天喜5年源頼義、義家の父子が、白旗を立てて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。(六郷神社WEB)

●旧弦巻川の命名/旧弦巻川/豊島区
弦巻川は池袋の地名の由来ともいわれる丸池を水源とし、法明寺門前から清立院の方と流れていたはば4m程の川で、この川の辺りで源義家が弓の弦を巻き直したという伝説により、弦巻川と呼ばれるようになっています。「雑司ヶ谷お散歩マップ」(雑司ヶ谷未来遺産推進協議会)

●欅の苗千本を寄進/大國魂神社/府中市宮町3-1
康平5年(1062年)、前九年の役平定の際に源頼義・義家父子が、欅の苗千本を寄進した。これは現在、国の天然記念物に指定されている「馬場大門のケヤキ並木」の起源である。(wikipedia)

●戦勝祈願奉幣/荏原神社/品川区北品川2-30-28
後冷泉天皇の御代、康平5年(1062年)、朝廷の命を受けた源頼義・義家両朝臣が陸奥の安部貞任・宗任を討伐することとなりました。前九年、後三年の役のことです。お二人は当社に戦勝祈願奉幣され、また、戦勝後も再び奉幣されました。 (荏原神社WEB)

●戦勝祈願/駒繋神社/世田谷区下馬4-27-26
駒神社は、ご祭神 大国主命 をおまつりし、前九年の役に源義家公、頼義公が戦勝祈願をし、奥州藤原氏の征伐に際しては、源頼朝公が戦勝祈願をしたと伝えられる源氏ゆかりの神社です。(Web駒繋神社)

●鎧懸松/八景天祖神社/大田区山王2-8-1
大田区の大森駅前の天祖神社に、八幡太郎義家が奥州征伐の時に先勝祈願をしたという、そのおり境内にあった松の木に鎧を掛けたという伝説がある。その松は、歌川広重作『八景坂鎧掛松』に鎧掛け松として浮世絵が残されている。

「八景坂(木原山にあり。この辺の絶景八ツ見ゆるをもて名とせり)鎧懸松(よろひかけまつ)むかし八幡太郎義家朝臣奥州征伐のとき、鎧をかけたまふといふ。この松六、七丈に及びぬれど、枝をたれて、地より軋五尺を隔つあり。もつともたぐひ稀なるべし。かかる大樹なれども、動かすときは枝葉倶に震う。よつて震松(ふるひまつ)とも名づく」(名所江戸百景・広重)

名所江戸百景 八景坂鎧掛松 – 国立国会図書館デジタルコレクション

●戦勝祈願/兜神社/中央区日本橋兜町1-12
兜神社は、東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当り、明治11年(1878)5月に取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営されました。境内に安置されている兜岩は、前九年の役(1050年)に源義家が東征のみぎりこの岩に願を懸けて戦勝を祈願したと伝えられ、当地名日本橋兜町の由来ともなっています。(WEB猫のあしあと)

●戦勝祈願・手植松/月見岡八幡神社/新宿区上落合1-26-19
社伝に「源義家奥州征討以前の社にして、義家当社に参詣して戦捷の祈願あり。当時其手植せる松樹一身幹、徳川氏の代いつの頃か枯死し、根幹のみ年久しく社殿背後に残存せし由也」とある。(宗教法人 東京都神社庁WEB)

●兜と太刀の奉納/穴八幡宮/新宿区西早稲田2-1-11
社伝によれば、1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。(wikkipedhia)

●戦勝祈願・創建/抜弁天厳島神社/新宿区余丁町8-5
“白河天皇の御世、応徳3年(1086)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳島神社の始めと伝えられている。(WEB猫のあしあと)

●戦勝祈願/白山神社/北区堀船3-11-3
源義家奥州に出陣のさい、当白山社に詣で戦勝を祈り奥州を平定し、当地を経て鎌倉より京師にのぼれりといわれている。(WEB宗教法人 東京都神社庁)

●石水八幡の勧請/今戸神社/台東区今戸1-5-22
後冷泉天皇康平六年(一〇六三年)、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、篤く祈願し、鎌倉の鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。(今戸神社WEB)

●勧請/熊野神社/荒川区南千住6-70
創建は永承五年(一〇五〇)、源義家の勧請によると伝えられる。
大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄三年(一五九四)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行なった。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。(荒川区教育委員会掲示より)

●戦勝祈願・石清水八幡宮の勧請/大宮八幡宮/杉並区大宮2-3-1
第70代・後冷泉天皇の天喜年中(1053~57)に、奥州に乱(前九年の役)が起き、この乱を鎮めよとの勅命をうけた鎮守府将軍・源頼義公の軍がこの大宮の地にさしかかると、大空には白雲が八条にたなびいて、あたかも源氏の白旗がひるがえるような光景となりました。源頼義公は、「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓って、武運を祈り出陣されました。そして奥州を平定して凱旋のおり、誓いの通り康平6年(1063)、京都の石清水八幡宮より御分霊をいただいて、ここに神社を建てました。(大宮八幡宮WEB)

●手植松跡/大宮八幡宮/杉並区大宮2-3-1
八幡太郎義家公も後三年の役のあと、父にならい当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたと伝えられています。(大宮八幡宮WEB)

●神鏡の奉納他/多田神社/中野区南台3-43-1
・・頼義、義家の父子二公は前九年後三年の両役に大軍を率いて、奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092年)祈願達成の報賽として大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ雑色村の鎮守社として住民に崇敬せられてきたということが「武蔵名勝図会」に記されている。(WEB多田神社)

●参籠/簸川神社/文京区千石2-10-10
当社は、第五代孝昭天皇御宇三年(473年)と伝えられる古社で、八幡太郎義家公奥州下向の折参籠ありし社である。(WEB宗教法人 東京都神社庁)

●戦勝祈願奉納/練馬白山神社/練馬区練馬4丁目1-2

樹齢約900年と推定される全国でも有数の巨木です。永保3(1083)年、源義家が後三年合戦で奥州に向かう際に、戦勝を祈願して奉納したものと伝えられています。(以下略)

練馬登録天然記念物・国指定天然記念物「練馬白山神社の大ケヤキ」 練馬区教育委員会案内板

※2024年3月24日更新

※2019年8月24日更新

※2019年4月28日更新

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