明治時代以降、王子周辺に設けられた会社や工場、軍の関係者で王子の盛り場を支え、大正時代には、王子の料理屋街は二業地として大いに賑わっていた。
昭和3年(1928)、王子二業地は東京製絨(せいじゅう)会社の跡地(現豊島一丁目)への移転を機に三業地として認可されたが、やがて昭和58年(1983)、王子三業組合は解散した。
昭和7年の「三都花街めぐり」という当時のガイドブックに紹介されている。
王子神社の台地は石神井川の下流「音無川」の清流を挟んで飛烏山と相対し-春は花、夏はは夕涼み、秋は滝野川の紅葉と云った風に、江戸時代郊外切っての行楽地として知られたところ、料亭「扇屋」は創業三百年の歴史をほこる古い家柄で、江戸名所図絵にも出て居れば廣重、豊国の名筆にものぼって、紅葉寺の所在は知らなくても、王子の扇屋を知らない者は無かつた程で、明治の文豪尾崎紅葉なども.しばしば此家に遊んだものだった。
「三都花街めぐり」松川二郎・昭和7年
しかし指定地として芸妓屋待合の公許されたのは極く新しいことて漸やく昭和四年の四月から、王子町大字豊島の俗称「王子新地」の狭い一廓、ここに芸妓屋十四軒、芸妓三五名 待合が六軒。
料理屋で指定地内にあるは「新よし」位のもので代表的料亭「扇屋」は驛前、音無川を庭の泉水のやうにしてどっしろと構え、その他音無橋袂に「見晴」御殿下に「養老館」王子稲荷のとなりに「紅葉館」、蚕糸学校前に「達磨荘」といふ具合に散在して居り、十条驛前の「ときわ」へもここの芸妓がはいる。待合で代表的な家といへば「花家」だらう。
参考文献:
「移り変わる盛り場=王子三業地」(久保埜企美子)北区飛鳥山博物館
「三都花街めぐり」(松川二郎) 誠文堂・昭和7年発行