吉本隆明の強さとよわき

吉本ばななさんの父親とご紹介した方が今の若い人にはいいのかなとも思うが、隆明氏の次女さんは吉本ばななといい、作家をされているとお話した方がいいのか迷う処だが、私にとって隆明氏は途轍もなく距離感のあった、出身大学の大先輩であった。しかし、名前を存じ上げたのはいつだったのか記憶が定かでなく、確固たるして言えることは大学の同期で隆明氏に傾倒していた方がいて、その同期から吉本隆明の名を知った次第で、二十前後の頃であった。当時は興味も持てなく、難解だという先入観があって隆明氏の著作を追いかけることも無かった。やがて、私も大学院卒業時に結婚し、東京の田端界隈に住むことになり、現在に至っている。本当に、残念というか、それから三十五年近くも経って、マイブログで隆明氏がご逝去された時に記した短文を基にこれから呟く独り言が唯一のものに過ぎない。

2012年三月十六日にアップしたマイブログ、題目:吉本隆明氏御逝去

平成二十四年三月十六日午前二時過ぎに、吉本隆明氏が御逝去された。このニュースを三時間後にネットで知った。それ自体偶々早起きをしていたので、新聞でなくネットで流れていたニュースを目にしただけであった。しかし、それから、一時間半ぐらい過ぎて、その間、私はあまり吉本氏の著作を読まなかったので、安易なやり方で、wikiに紹介されている吉本氏の人となりを読ませて頂いた。八十七年間のご自身の人生を生きられ、多くの若者に慕われ、吉本氏の本をかかえていると、一端の若者だと周囲から見られることが、ある種の優越感、満足感を感じ、俺もそんな青春時代を過ごしたと思い返している人も多いと思った。残念ながら、私はこの五十八年間、吉本氏には影響を受けなかった、というより、周囲の人が吉本氏と囁いても、入り込もうとしなかった。さて、wikiの人となりを読ませて頂いて、最後の103番で引用されている参考資料で、こう示されていた。

*吉本氏は「自分なりの方法はあるけれど、個人が固有に持っている誰にも変えられない個性とか、あるいは好みとか考え方とか、そういう宿命的なものがある。それをごまかさずに深めて、抱えて生きていくことが強さになるんじゃないでしょうか」と、人の考えに寄りかからずに来られたその強さはどこから来るのか、という問いかけに対して答えられたそうである。

まさに、市井の多くの人は“人の考え”に寄りかかり、それで強さを得て、生きれるのが常である事の相反した人生を送った稀有な方であったと信じている。(午前六時五十分記)

ご逝去から四年程して、隆明氏の短編、「背景の記憶」(宝島社)よりこだわり住んだ町が紹介されているネット記事を読む機会を得た。得たというより、偶然の必然性を鳥肌が立つ如く感じた。ご逝去の際に田端に比較的近い本駒込のご自宅で亡くなられたと報じられて、そんなお近くに居られたのかと無念の気持ちになっていた。「背景の記憶」は1994年に出版されているので隆明氏が67歳位であり、さらにこだわり住んだ町に紹介されていることが追い打ちとなった。そこで今は古書扱いになっている「背景の記憶」を探し求めて自分自身で隆明氏の記しを追った。

今はやりの地政学的には、隆明氏は山手線・京浜東北線が上野辺りから崖っぷちを通っているその下側を坂の下、崖上を坂の上と呼んで、隆明氏が若い頃に住んだ、坂の下地区で所謂下町風情がいきづいているという。それに対して崖上の坂上地区は非下町という言葉で表現した。少し気になったのは、無意識にという語彙を多用してくることで、二三四頁の東京に住むと題されたショートノートで、

住むということは、おなじ言いまわしをすれば、いつでもその土地の内側に入っていて、もう意識にものぼらなくなっている状態だといえよう。

これは隆明氏の無意識の裏がえしの表現とした。さらに、

わたしにこの状態を感じさせる東京の場所は、生まれてから思春期まで住んでいた中央区の月島・佃島界隈と、台東区と文京区にまたがる谷中・千駄木・駒込界隈だけだ。このふたつの場所に共通の何かがあるとすれば「下町的」ということになる。もうすこしくわしくいえば「下町的」な風情をのこしながら、東京のビルの立ちならぶ中心街に口を開いている境界ということになる。

読み進むと下町風情が息づいている路地を進んでいく隆明氏の姿が想像できる。残念ではあるがとおに還暦を過ぎた隆明氏の後ろ姿が、ある意味分かりやすい言葉で私の中に這い出てくる。そういう時に無意識にと表現されていて、肉体的、精神的な弱気でなく、無意識からくる許される齢気(よわき)なんだと納得した。

PAGE TOP