山﨑菊次郎

滝野川尋常高等小学校長(大正3年~昭和12年在任)

1932年(昭和7)、山崎菊次郎(1914(大正3)年~1937(昭和12)年在任)は瀧野川区(現・北区)瀧野川尋常高等小学校の校長に就任し、新教育を実践した。

山﨑は、1883 ( 明治16)年、埼玉に生れ、1906年( 明治39)、青山師範学校を出て、教員生活のスタートを切っている。それから、板橋小学校で訓導3 年、主席訓導3 年後、田端第一小学校長となり、滝野川尋常高等小学校長に就任した。

滝野川小学校で山崎が指導した新教育の歴史は、同校の「昭和二十年度国民学校教育奨励費申請書」における校歴大要によってみると、つぎのようになる。

大正12 年 新教育の基盤を児童の健康と師弟との強き愛情に求め之を競技に表現し新レコード数種を作り、優勝旗の永久確保十数本に及ぶ。
大正13 年 芸術教育特に学校劇を研究し、之を公開す。ヂャーナリズムの注視を浴びて( 注2)江木文相より弾圧さる。( 注3)
大正14 年 新教育の入門的手ほどきに、国語、算術指導に主力を指向す。毎週研究授業を行い高師から訓導を招き座談会を開く。系統的新教育研究の第一歩をふみ出す。
大正15 年 第一回全校公開教授を行ふ。「日本新教育協会」を同志と共に創設(注4)、 実践運動を展開す。毎月機関紙を発行す。
昭和 2 年 画期的なる合科学習、綜合学習を実施す。男女共学を六年迄実施し学級経営に新生面を開く。奈良女高師に指導を仰ぎ友校と提携、新教育の実践に専念す。
昭和 3 年 高二委員を議長とし、各学年選出委員数十名による学校自治会を開き反省と創意を求む。
昭和 5 年 機関紙「日本新教育」友紙「新教育」紙上に、教育記録を掲載する傍ら十指に余る街頭の教育、文芸雑誌に、殆んど、本校職員の掲載せられざるなき迄に各科にわたりヂャーナリズムへの進出、全盛期を醸成す。職員の著述者二に及ぶ。
昭和 6 年 大陸に事変勃発して国粋運動起り自由主義的教育の歩み漸く重きを加ふ。
昭和 8 年 新教育が真教育なる所以は、蓋し新教育なるに非ずして、教育本然の姿に立ちて、飽く迄真理なるが故に真理なりとの信念に燃えて合科学習を再検討し研究に拍車を加ふ。
昭和 9  年低学年の合科学習、中高学年の綜合学習の研究、漸く実を結ぶ。
昭和10 年 生活指導に立つ教育と日本主義教育の嵐の中に、過去十年、十回に亘る全校公開教授に終止符をうつ。
昭和13 年 教育の全一性に立ち各学年の綜合教育の実践につき屡、父兄に発表会を行ふ。
昭和16 年 協会を解散し、会員を脱退し、自由主義的教育の発展的解消を断行す。

「昭和二十年度国民学校教育奨励費申請書」

大正13年2月24日、西ヶ原の活動写真館(映画館)萬歳館で行われた学校劇は、脚本も背景も振り付けも、すべて教師と児童の手による教育的創作であったという。当時の新聞には次のように報道されている。

小学校が課目にして芝居を教へる東京では滝野川校が皮切りで新学期から毎日一幕づつ「こどもの生活は純真其のものです、偽らない凡ての表現は芸術そのものと言つていいでせう、大人は此芽生を良き方へ、導くことを忘れてはなりません、児童劇を教育に取入れようとする私共の試みが第一過程としての発表までに到達しました」市外滝野川尋常高等小学校では恰度一年前から教科用としての演劇の研究を始め、校長山崎菊次郎氏を始め長里、丸山、水上其他訓導達等生徒と一緒に熱心な研究を続けてゐたが、遂に或る程度までの成功を見たといふので二十日午前八時半から西ケ原の活動写真館万歳館に生徒の父兄、教育家、研究家等を招き第一回の発表会を催すこととなった。(以下略)

(大正13 年2 月18 日付東京朝日新聞)

しかし、山崎はこの時の状況を次のように記している。

「大体ジャーナリズムは私達の気持を、素直にとりあげてくれた。しかし、上司は必ずしもさうでなかつた。私は府庁によばれ、近藤學務部長の前に屠所の羊のやうに引き立たされた。私は、學校劇に対する抱負と、実験上の自信とを披瀝して、教育の効果を力説した。府からの注意で、時の文相江木千之氏を訪問して、夢中で學校劇論をのべまくつた。無論両方とも、「聞きをく」で「追つて沙汰は致す」式で、底気味の悪い事は話にならない。全く此の時は、心静かに免職通知の日を待つた。」

山崎菊次郎.1935.私の自叙伝.新教育研究.第5 巻第1号

さすがに文部省も東京府もそれ以上の処置は出さなかったが、同年8月、江木文相の後任の岡田良平文相は、事実上の学校劇禁止令の訓令をだした。その後、山崎校長は、前出の新教育を実践し、昭和12年、他校へ転任となり、滝小における「新教育」は終わりを遂げた。

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