宮本百合子が見た谷田川

谷田川物語(6)

宮本百合子が戦後子供の頃見た谷田川の風景を回想している文章がある。

田端の高台からずうっとおりて来て、うちのある本郷の高台へのぼるまでの間は、田圃だった。その田圃の、田端よりの方に一筋の小川が流れていた。
関東の田圃を流れる小川らしく、流れのふちには幾株かの榛の木が生えていた。
二間ばかりもあるかと思われるひろさで流れている水は澄んでいて流れの底に、流れにそってなびいている青い水草が生えているのや、白い瀬戸ものの破片が沈んでいるのや、瀬戸ひき鍋の底のぬけたのが半分泥に埋まっているのなどが岸のところから見えていた。
大根のとれる季節になると、その川のあっちこっちで積あげた大根を洗っていた。
川ふちの榛の木と木の間に繩がはってあって、何かの葉っぱが干されていたこともある。わたしたち三人の子供たちは、その川の名を知らなかった。
田圃のなかへ来ると、名も知れない一筋の流れとなるその小川をたどって、くねくねと細い道を遠く町の中へ入って行くと、工場のようなところへ出て、それから急に人通りのかなりある狭い通りへ出た。
そこには古い石の橋がかかっていた。そして石橋の柱に藍染川とかかれていた。
その橋から先はもう小川について行くことができなかった。
空の雲を水の面にうつして流れている水は町へ入ったそのあたりから左右を石崖にたたまれ、その崖上の藪かげ、竹垣の下をどこへか行っていた。
わたしたち子供は、田圃のなかから川について町へ出て来るから、いつも流れをさかのぼっていたわけだった。
不忍池から源を発している小川だったのだろう。

出典:青空文庫 菊人形「大衆クラブ」宮本百合子 1948(昭和23)年第9号

宮本百合子(1899~1951)は、明治32(1899)年2月、小石川原町(現・千石1‐)に建築家の中条精一郎と妻・葭江の長女として生まれている、すぐに父の仕事の関係で札幌へ行き、3年後の明治35年12月、本郷駒込林町21番地(現・千駄木5‐21‐)へ戻っている。

明治後期の谷田川(藍染川)の風景であろう。

参考文献:文京区ホームページ「文京ゆかりの文人」、wikipedhia

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