辻 潤(つじ じゅん)

ダダイストと呼ばれた辻潤は、著作の「ふれもすく」によると「少年の時分から染井が好き」であったことが記されている。また「山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通っていたのであった。」とあり、上野高等女学校の教員をやっていた頃には、染井の住人だったのである。

豊島線(現山手線)が完工したのが明治36年で、駒込駅の開業が明治43年である。明治43年頃には染井に住んでいたことになる。

明治45年、上野高等女学校の生徒であった伊藤野枝とで同棲し、巣鴨村村上駒込840番地で借家住まいを始める。

辻潤の年譜によると1915年(大正4)に小石川指ケ谷町92番地の借家に移っている。明治43年前後の染井は「森の中の崖の上の見晴らしのいい家であった。田圃には家が殆どなかった。あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだったが今は駄目だ。」と記している。

年譜:http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/4605/tsujijun/tsujijunBio.htm

僕はその頃染井に住んでいた。僕は少年の時分から染井が好きだったので、一度住んでみたいとかねがね思っていたのだが、その時それを実行していたのであった。

山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通っていたのであった。僕のオヤジは染井で死んだのだ。だから今でもそこにオヤジの墓地がある。

森の中の崖の上の見晴らしのいい家であった。田圃には家が殆どなかった。あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだったが今は駄目だ。

日暮里も僕がいた十七、八の頃はなかなかよかったものだ。

すべてもう駄目になってしまった。全体、誰がそんな風にしてしまったのか、なぜそんな風になってしまったのか? 

僕は東京の郊外のことをちょっと話しているのだ。染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。

遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。初めて自分は生きた。

あの時僕が情死していたら、いかに幸福であり得たことか! 

それを考えると僕はただ野枝さんに感謝するのみだ。そんなことを永久に続けようなどという考えがそもそものまちがいなのだ。

<略>

染井の森から御苦労になけなしの金をこしらえて神田の立花亭のヒル席に出かけたものだ。

「ふもれすく」(一九二三年十一月、四国Y港にて)青空文庫より引用

墓所は、染井の西福寺(豊島区駒込)にある。
参考文献:「ぶらり中山道巣鴨」伊藤榮洪・発行豊島区

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