滝野川、焼野原の孤独
1897(明治30)奈良県で生まれの1930年代に活躍した版画家。戦後間もなく栄養失調により北区中里で死亡しているところを発見された。
谷中はそのような新東京を風船のように放浪し、大都市の様相に幼少期の記憶や生活の理想などを重ね合わせて、夢と現実が織りなす木版画を制作しました。
(町田市国際版画美術館)
北区中里での壮絶な最期をを遂げた模様が「昭和20年の東京地図」(西井一夫)に記されている。
滝野川区中里に谷中安規が住みついたのは昭和十六年四十四歳の時であった。
にんにく一片で「三日の生命をつないでいたこの極貧の版画家は、内田百聞の小説の挿絵を担当したりもしたのだが、金が入るとタクシーで月見に行ったりするからいつも貧しく、女にはホレたが、一度も成就しなかった。
しかし、その絵の世界は棟方志功を越える精神的深みをもった物語的世界を展開していた。
安規のアパートは駒込駅から歩いて二百メートルばかりのところにあったが、二十年四月十三日夜半、空襲のため焼け出され、以後近くの防空壕を住家とした。
翌年七月中頃、安規は栄養失調のため体がむくみ、歩けなくなっていた。
滝野川区役所から生活扶助を受け、1日一円九十六銭が支給されていたが、九月九日朝、同情して時折見舞いに来てくれていたかつてのアパートの住人の佐瀬喜代子さんがのぞくと、すでに死んでいた。
焼棒杭の上に渡した破れ畳に両足をのせ、頭を台の畳から落とした格好を微かに口をあけて死んでいた。
四十九歳であった。栄養失調の安規の、焼け野原の孤絶した死であった。救生院法悟栄徳信士。合掌
<滝野川、焼野原の孤独>
これまで、町田市国際版画美術館や兵庫県立美術館で谷中安規の版画展が開催されている。