平塚らいてう

元始、女性は太陽であった

「元始、女性は太陽であった。」と高らかに宣言をした平塚らいてうは、1886年(明治19年)2月10日、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)に3人姉妹の末娘、平塚明(ひらつかはる)として生まれた。実家の本駒込曙町時代を含めて駒込、巣鴨、田端界隈で居住・活動を行っていた。

以下、駒込・田端・巣鴨界隈に関する部分を抜き書きすると、

1894年(明治27)実家が本駒込の曙町(本駒込2-15-18)に移転する。
1908年(明治41)3月、夏目漱石の門下生の森田草平と田端にあったつくば園で落ち合い、田端駅から塩原への逃避行に向かった。

じつに美しい月夜でした。満月の晩でした。駒込の天祖神社の境内をぬけ、動坂を降りて、向い側の暗い坂を田端の高台へと上り、崖の上のつくば園というお休み茶屋まで人通りの絶えた木立の道を、月光にぬれながら身も心も軽いおもいで急ぎました。
道端の落葉した樺の大樹の枝が、白けた路上に黒々としたかげを落し、それがなんとも繊細な線で、網目のような紋様をじつに鮮やかに描き出していたのが、いまだに忘れられぬほど美しかったのは、冒険に臨むこちらの心が異常に緊張していたからでしょうか」

「田端文士・芸術家村と女たち」(北区総務部/加瀬厚子)

1911年(明治44)26歳、雑誌「青鞜」を創刊した。表紙絵はのちに高村光太郎と結婚する長沼智恵子によるものである。が、2巻4号の「青鞘」が最初の発禁処分となって、駒込林町にあった青鞜社が駒込蓬莱町の勝林寺(現・豊島区駒込)に移されることになる。

1912年(明治45)5月から、勝林寺は前年9月に創刊した「青鞜」が編集所に使われた。「青鞘」が、荒木郁子の小説「手紙」によって発禁処分となって、それまで編集所としていた駒込林町の物集高之(もずめたかゆき)邸から追い出されたのを引き受けたのである。翌年4月に、編集所が巣鴨町巣鴨1162番地に移るまでの1年間のことだった。

「ぶらり中山道巣鴨」(伊藤榮洪)

1913(大正2)年頃、奥村博(1916年に博史と改名)と出会う。二人して道灌山、飛鳥山・・・と散歩した。

“思えば、この年の夏から秋にかけて、二人はどれほどいっしょに、足のむくままに歩いたことでしょうか。そのころの東京はいまと違い、どこへ足を伸ばしても、閑静な場所がいたるところにありました。
道灌山や日暮里、田端、小台の渡、飛鳥山、時には小石川植物園のあたりなど、よく歩きまわったところですが、その道みち、長髪長身の奥村と、小柄の女学生姿のわたくしが手をとりあってたのしそうに歩いている格好は、二人は夢中で、気づきませんでしたが、さぞ、その当時として人目にたったことでしょう。
動坂を下りて、田端の高台の方へ向かう道の近くに、きゃしゃな門構えの『つくし庵』という小さな家がありました。門のくぐり戸に鳴子がついていて、開けるとカラカラ鳴る仕掛けになっていますが、それは野枝さんにまえに紹介されたおしるこやで、客のない、いつも静かで、清潔な店でしたから、よく足休めにそだめな体質の奥村はお餅や、おしるこなら子どものように何度でもお代りするのに、びっくりしたものでこに立ち寄ったものです。
日暮里芋坂の名代の羽二重餅も、閑静な店でした。
甘党というよりも全然お酒のだめな体質の奥村はお餅やおしるこなら子どもように何度でもお代わりするのに、びっくりしです”

「田端文士・芸術家村と女たち」(北区総務部/加瀬厚子)

1914年(大正3年)「青鞜」4巻2号に「独立するついて両親に」を発表した。

“それで巣鴨の社から一二丁の處に極、閑静な植木屋の「離れ二階」を昨日二人で見付けて借りることに極めて参りました。それで實は明日にもその家に引移りたいと思つて居ります。”(家を出るについて両親へ・「女性の言葉」)

平塚らいてう評論集(小林富枝・米田佐代子編)

1914年(大正3年)巣鴨の高岩寺の向かい側の住宅地に、夏に画家志望の奥村博史(おくむらひろし)と世帯を持った。

らいてう夫婦が巣鴨にやってくると、社員で駒込妙義坂下に住んでいた伊藤野枝は、「経済のために、食事を共同で作ろう。料理は自分の方でする」と持ちかける。その申出に乗り、自宅を6月に妙義神社前に移した。

「ぶらり中山道巣鴨」(伊藤榮洪)

10月、千葉の御宿海岸に転地。1915年(大正4年)「青鞜」の発行権を伊藤野枝に譲る。しかし六巻二号(1916年2月)以後、無期休刊となる。

1917年(大正6)夏、一時期千葉の御宿、茅ヶ崎への転地を経て、上中里の地に戻ることとなる。

“奥村が肺結核となり、その療養のために1916年から住んでいた茅ヶ崎から、上中里に越してきた。(略)『青鞜』創刊からの仲間、保持研子(結婚して小野)が探してくれた、彼女の家に近い滝野川区役所裏、上中里が東京に帰っての最初の住まいだった。”

「田端文士・芸術家村と女たち」(北区総務部/加瀬厚子)

1918(大正7)、上中里から田端へ芥川龍之介の家と田端の切通しを挟んだ高台に家を購入する。

“らいてうの母親から「あなたにあげる分のお金-『青鞜』発刊のときに一部を出してくれた、結婚準備金の残りーを、お金ではすぐなくしてしまうだろうから家を」という訳で、一五畳ほどのアトリエもある田端の高台(坂道をへだてて芥川龍之介の家の入口と向かい合った崖上、現在の童橋の近く石段のあたり)の二階建てで、回り縁のついた日当たりのよい家を買ってもらって移ってきた。
かなり広い庭のある家だ。しばらくして庭の鶏小屋をつぶして、家賃収入を得られるようにと貸家を二軒建てたが、後にその内の一軒を「新婦人協会」の事務所として使うことにもなった。”

「田端文士・芸術家村と女たち」(北区総務部/加瀬厚子)

1919年(大正8)奥村は、畑中蓼坡 (りょうは) が創立・主宰した新劇協会に参加。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』などで旗揚げした。アトリエを稽古場にする。芥川の家に近いことから芥川も見物に来た。1919年(大正8)の我鬼窟目録(芥川龍之介)に次のようにある。

「午後木村幹来る。一しょに平塚雷鳥さんを訪ひ、序に『叔父ワニヤ』の稽古を見る。画室の中には大勢の要。戸口の外には新緑の庭。隅の椅子に腰を掛けて見てゐると、好い加減の芝居より面白い」

「田端文士村」(近藤富枝)

1920年(大正9)3月、らいてう、市川房枝、奥むめおを発起人とする「新婦人協会」を結成。賛助者約200名、出席者約70名を得て上野精養軒で発会式を行った。

1921年(大正10)夏以降、竹岡海岸、佐久山、伊豆山に転地療養し、滝野川界隈から離れることになる。

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