種子(たね)屋街道

ーシンポジウム「種子屋街道の歴史を今に伝える~榎本家店舗兼住宅の承継と未来への種まき~」に参加してー

 ここ滝野川に居を移して十七年経った。つい先日のことにも思えるのだが、数字に置き換えてみると時の長さを実感する。
 移り住んだとき、好奇心にかられ、あちらこちらの道筋を気の赴くままに歩いた。ふと種苗なる看板と、古風に取り残された店が佇んでいた。一体この道筋は何んだったのだろうかと心がざわついた。そんな折、「種子屋街道」なる講義を受けた。そこでは、どんな経緯があってこの街道が成り立ったかを教えられ、興味とともに疑問が解けそうで学びは今日に至っている。
 東大赤門から巣鴨、板橋に至り、中山道がずうっと続く街道沿いに種子屋通りが出来てきた。江戸時代その由来は滝野川種子屋の元祖、枡屋(榎本)孫八、越部半右衛門、榎本重左衛門の三家とされる。三軒家の地名が今も地図上に残る。農家の副業として自家採取した種子を中山道筋で売って評判となった。参勤交代で国元に帰る武士も買っていったと聞く。近くには加賀藩の下屋敷だった土地が畑、山林と渓流をもって拡がっている。人々の往来と種子の関係が興味を引く。
 明治時代以降、郵便制度の発達と鉄道輸送により全国規模の販売が可能となって中山道沿いの周辺は種子問屋街を形していった。大正五年、滝野川種子屋が中心となり、東京種子同業組合を設立した。目的は種子の仕切相場協定、優良原種の生産と供給、練馬大根、滝野川牛蒡、大長人参、夏大根の優良原種を「東京ブランド」として供給することで全国的な知名度と信用を高めた。やがて戦時中の種苗の生産配給統制により昭和十八年に解散した。
 大正大学でのシンポジウム「種子屋街道の歴史を今に伝える~榎本家店舗兼住宅の承継と未来への種まき~」が開催され参加してみた。(令和六年十一月三十日)

 表記「榎本家」は令和五年四月に豊島区の有形文化財に指定された。「江戸時代から滝野川~巣鴨の中山道沿いで営まれてきた種子屋の歴史を今に伝える、戦災を奇跡的に免れた区内最古の木造住宅」とパンフレットにある。

 その前年、令和四年十二月一日に「一般財団法人 榎本種苗歴史文化財団」が設立された。これは平成三年、榎本家より種子蔵の解体で大量の資料の寄贈が豊島区立郷土資料館になされ、資料館友の会古文書サークル有志五名が三十年かけ令和三年三月に、約六万四千点の整理をほぼ終えた。それにより財団設立となった。「この資料から中山道種子屋通りの歴史と奥深い種子屋の世界が明らかになってきた」とある。大正大学では「よみがえれ『種子屋街道』プロジェクト」を起こし、グリーンインフラとしての都市農業、すがもプロジェクトへの参加と種子屋街道、種子屋街道案内板の設置と説明、歴史学科の授業等での取り組みなど行っていると説明があった。中山道の種子屋通りを「種子屋街道」を(たねやかいどう)と命名したのもこのプロジェクトと聞く。まち起こしとて地域の人々と学校が連携をして歴史を甦らせ心豊かに暮らしていくことは楽しい。キャンパスの屋上に農園も試みられているという。滝野川牛蒡、大長人参など伝統野菜が日常的に食べられたらいいなあーと希望しながら種子屋街道に思いを馳せている。

 知人は言った。この街道には亀の子束子もあるし、映画テルマエロマエに登場する風呂屋、稲荷湯もある。文化財的なものも散見され、中山道板橋までも続いていったらより魅力的な街になると、街おこしの夢を語る。家はどんどん建て替えられて跡形がなくなる。榎本家は、大正大学鴨台さざえ堂近くの街道沿いに保存修理中で、在りし日の種子屋の姿が新しくなるのを待っている。(成島 哲子)

※なお、この文は雑誌「月虹」(2025年6月・終刊号)に投稿されたものを筆者及び関係者のご厚意により、転載いたしました。次の写真は当日見学会時に撮影されたものです。

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