在野の考古学研究者
1902(明治35)年1月、豊島線(現・山手線)が着工した。田端から駒込へ抜けるために田端道灌山(田端西台通り)が切り崩され、切通しがつくられた。
それに先立つこと6年前、1896(明治29)年3月、蒔田鎗次郎は自宅の庭のゴミ捨て場の穴から土器群を発見しその側壁から竪穴住居の断面を確認した。
それを契機に、蒔田は写真の色付けを生業としながらも、研究に没頭することになる。
先の豊島線の工事や田端駅北口の工事において、断面を観察し土器を採集するとともに論文としてまとめ「弥生式土器(貝塚土器ニ似テ薄手ノモノ)発見ニ付イテ」と題して発表した。
冒頭の書き出しは、
府下豊島郡田端の道灌山に穴のあること及び其より彌生式土器を出すことは既に第百三十八號の本誌に掲げて置いたが此は海岸線工事の時に堀取られた断面に露はれたのでかゝる場合が無ければ此の調査は實に困難であるのだ。
此の発見は今より丁度五ヶ年程以前の事で此の間には随分所々から土器の発見等も有つたが穴の研究は一向に進まないのはつまり調査か出來悪くあるの故だ道灌山は豊島線工事が初められたので今や再び調査するの機會を得たのは實に喜ぱしき事であるしかも表題の如き事實の登見されて予は坪井先生の命を受け日本鐡道會社は之に向て便宜を與へられ穴のて充分満足なる調査を逡げたのである。
場所は田端停車場を去る北へ僅かに二三町、以前に堀去られた處より続いて西南へ向て道灌山を横に最早二分の一程堀られたのである其の切り口には例の堅穴的の穴が大小幾つとなく発見された此の穴の内には長いのがあり短かいのがあり深いのがあり淺いのがあり角のもあれば叉圓のもあるなど様々な形に依て露れて居る丁度此の報告をする迄に両側に都合二十四個程有つたが絶へず堀られてあるのだから殖へもすれば又減る事もある
日本鉄道会社の便宜を与えられての調査とはいえ、工事の合間を縫っての困難な調査だったと伺える。しかし、蒔田は豊島線の工事が始まったことで調査の機会が与えられたことを”実に喜ばしい”ことと素直に喜んでいる。
この蒔田は同じ論文の最後で以下のように結んでいる。
猶ほ彌生式土器の模様及古墳及石器時代等の關係に就ても少しく述べたい事も有るが道灌山の調査も未だ半ばなれば進て総括して報告する事と致さふ。
1896(明治29)年、蒔田鎗次郎は池袋東貝塚とよばれるものを発見している。
貝塚の規模は約20間(36㎡)平方とされているが、縄文時代のいつの時期のものかはあきらかでない。
染井墓地内貝塚もまた、蒔田の発見による。谷田川(藍染川)の谷に近い墓地内の西北端にあったといわれるが、現存しない。シジミ、カキ、ハマグリなどからなる貝塚であり、磨製石斧きが採集されている。
1905(明治38)年、蒔田は結婚と同時に学会活動を停止している。10年間という短い期間であったが、地元を中心に、東京の西北郊外を主なフイールドとして、地道な活動をつづけたのである。「弥生式土器」の名を活字として定着させ弥生研究に大きな足跡を残した。
1920(大正9)年、肺結核で亡くなった。 染井墓地には、日本考古学の開拓者である西ヶ原貝塚を調査した坪井正五郎の墓がある。10年間を精力的に調査した在野の研究者も、また、この染井墓地隣接の勝林寺の墓所に眠っている。
蒔田鎗次郎の自宅は、「北豊島郡巣鴨町上駒込十三番地」(現在の駒込一丁目二番・六番)にあった。
参考文献・資料
◆「駒込一丁目遺跡(弥生時代編)」(成田涼子) シリーズ としまの遺跡9
◆「考古学の研究の舞台となった西ヶ原と田端」(牛山英明) Voice27
◆『農耕社会の成立』(シリーズ日本古代史① 岩波新書 平成22年(2010)10月刊行)
◆「豊島区史 通史編1」豊島区
◆『東京人類学会雑誌』第192号他