田端の『のんきな父さん』
日本の喜劇俳優。本名は武智 故平(たけち こへい)。田端の谷田川沿いに一時期居住した。
以下、Wikipediaによると、
1876年(明治9年)4月12日、徳島県吉野川市鴨島町に生まれる。
wiki「曾我廼家五九郎」
自由民権運動に感化され数え年16歳のときに東京に行き、板垣退助の玄関番となる。
その折り星亨の玄関番をしていた横田千之助と懇意になる。
その後壮士として弾圧を受け、大阪の中江兆民の許に身を寄せる。
角籐定憲、川上音二郎、福井茂兵衛などの壮士芝居(新派の前身)の一座を経て、満31歳を迎える1907年(明治40年)、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗った。
1910年(明治43年)には横田商会、1912年(明治45年)には吉沢商店の初期のサイレント映画に主演している。
特に後者は東京・浅草公園六区に吉沢商店が経営していた浅草帝国館で公開されている。
同年春に独立し同地帝国館にて一座を構える、このころから川上貞奴、小山内薫、歌舞伎の二代目市川左團次の自由劇場などの影響を受け、自らの一座に女優を積極に出演さたり、喜劇にオペラの要素を取り入れた「五九郎ミュージカル」を公演するなどその後の喜劇に大きな影響を与えた、同年、横田商会と吉沢商店は合併して日活を設立した。
満41歳を迎える1917年(大正6年)、同年にオープンした東京・浅草公園六区の観音劇場の経営を根岸興行部に任され、一座で公演する。
このころ、浅草の通俗教育昆虫館の経営を支援し、建替え資金を供出している。
1925年(大正14年)、満49歳のころ、麻生豊の漫画『ノンキナトウサン』を映画化した畑中蓼坡監督の『ノンキナトウサン 花見の巻』、小沢得二監督の『ノンキナトウサン 活動の巻』に主演、浅草の日本館等で公開され人気を得た。
トウサン役は五九郎の当たり役となった。
同作は、小説家の直木三十五(当時・直木三十三)の経営する聯合映画芸術家協会が製作したもので、翌年には直木と提携するマキノ・プロダクションの牧野省三らの監督した『山賊』にも主演し、一座で出演している。
同作は、牧野と提携していた高松豊次郎の経営する浅草の大東京で公開された。
五九郎の一座には、武智豊子(1923年入団)、伴淳三郎(1931年入団)らがいた。
1940年(昭和15年)7月7日、死去した。
満64歳没。出身の吉野川市鴨島町鴨島の鴨島駅前に五九郎の碑がある。(1876年4月12日 – 1940年7月7日)
日枝神社と曾我廼家五九郎の所縁については、「田端の神社・小祠と地域社会」(芦田正次郎・「北区史研究」第3号平成7年2月)に詳しい。
日枝神社の社殿は高い石段上に位置しているが、石段下に一対の狛犬がある。台石には「大正十二年六月吉祥日 武智勇之助 同ミヤ」と彫り、次いで仝倅(せがれ)曽我廼家五九郎 石工高木梅一郎」の銘文がある。
「田端の神社・小祠と地域社会」(芦田正次郎・「北区史研究」第3号平成7年2月)
造立者と思われる曽我廼家五九郎の家号「曽我廼家」とは、歌舞伎の俳優で、後に五郎・十郎と名乗る二人が明治三十六年にはじめた「新喜劇」で使った家号のことで二人が力を合わせて始めたこから、曽我兄弟にちなんだ芸名を用いたのであった。
日本で始めて「喜劇」という語句が用いられたのであるが、曽我廼家劇とも呼ばれ、これから幾つかの劇団が派生している。
五九郎もその一つであったが、交友関係が極めて広く、浅草の劇場で上演する際には、総理大臣をはじめとして各大臣・各界有名人の花輪が並べられたほどであった。
東京で初めて喜劇を上演した五九郎が、不遇時代に暖かく接くれた光明院住職にひかれ、病気勝ちな両親を大正十年から田端に住まわせ、近くの当社に快復を祈願し、その願が叶った時に奉納しこの狛犬である(『北区史民俗編2』参照)。
前述の本殿の石積基壇の前にある石燈籠(全面に焼痕がある)にも「昭和二年五月吉日武智ミヤ」の銘がある。
この銘文から見ると「曽我廼家五九郎」が両親の名を留めてゆかりの当社に奉納したもので「石梅」と呼ばれる、地元のポプラ坂近くの石屋に造らせたものと思われる。
これも戦災の際の焼夷弾よりて、狛犬そのものは被害が少ないものの、台石の角々はえぐられている。
徳島県吉野川市では6月の最終土曜日、鴨島町出身の喜劇俳優・曾我廼家五九郎の至芸をたたえ「五九郎まつり」が開かれている。
※2019年2月23日、2021年2月25日追記