十条跨線橋の保存活動をされている有馬さんより寄稿頂きましたので下記に掲載します。
1.そのうち無くなる歴史遺産
私が地域史にのめり込む切掛けは、王子法人会の広報誌に十条跨線橋と環七の平和橋を思うままに書いた事。その十条跨線橋が無くなるという。その経過を知りたく北区の担当部署に電話で訊ね概略をお聞きし、併せて北区議会ホームページ掲載の議事録を開けてみた。以下、その概略である。
北区議会建設委員会は平成29年11月27日に北区土木部土木政策課より「東十条駅南口駅前空間整備の方向性について」報告を受けている。その要旨には「東十条駅南口においては、十条跨線橋架替えと駅前空間の一体整備をという地域からの強い要望を受け、橋梁の架替えを急ぎつつ一体整備の実現に向けて、JRと検討を行ってきた」とあり、今後の予定として「平成30年度 鉄道施設への影響検討(その2、JR委託)調査完了 事業実施に向けた基本協定をJRと締結」 「平成31年度 設計業務着手(JR委託)」とある。
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『架替え』とある以上、十条跨線橋の運命は廃橋であり、それが一部でも区内で存続、展示出来ないかを青木博子区議会議員に相談させて頂いたところ、議会に陳情書を提出されてみれば、とのアドバイス。提出期限ギリギリに間に合い9月4日の議会建設委員会にて審議頂いた。
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平成30年9月4日
東京都北区議会議長殿
陳情者 北区史を考える会
副会長 有馬純雄
「十条跨線橋の一部を歴史遺産として保存、展示する事の陳情書」
(要旨)東十条駅南口の利便性改善のため同駅新駅舎及び取付道路の事業実施に向けた基本協定が北区とJR東日本の間で平成30年度内に締結の予定である。これに伴い十条跨線橋は解体撤去されるが、その一部を北区の歴史遺産として、保存、展示し「鉄道の街北区」のモニュメントとなる事を陳情する。
(理由)十条跨線橋は、明治28年に架設された東北線旧荒川橋梁の四連トラス橋部分(複線、一連の径間100ft. ポニーワーレントラス構造、英国コクラン社製)の一連を昭和6年の下十條(現東十条)駅開設に併せ、南口取付道路の一部として東北線を跨ぐ跨線橋として転用、竣工した橋である。通算123年の永きに亘り、北区内外の交通の動脈を担い、また地域の産業振興や住民の安全な往来、電車乗降の利便性に貢献してきた。北区の産業及び交通に関わる遺産であり、北区の歴史を物語る貴重な存在である。本橋と同時期、同規模、同構造の東海道線旧六郷橋(多摩川、1877年竣工、英国ハミルトン&ウインザーアイロン社製、2009年近代化産業遺産群・続33の540件中の一つ)が博物館明治村に移設展示されており、十条跨線橋の歴史的価値は同程度と言えよう。近現代の歴史遺産と雖も地域の付加価値を引上げる要因となる事から、ここにその移設展示を求め陳情する。
北区史を考える会
副会長 有馬純雄様
東京都北区議会議長
榎本はじめ
「陳情結果について」
あなたから提出されました陳情については、平成30年10月5日開会の本会議において下記のとおり決定しましたのでお知らせします。
記
審査結果 意見付き採択 (意見)趣旨に沿うよう努力すること。
2.十条跨線橋の見所
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1.約30m(99ft.)径間の荒川橋梁を転用して設置するため、東側にコンクリート製橋脚を建設している。道路幅員は約5.5m、橋梁の高さは約3m(10ft.)。
2.鉄道橋であるため道路橋へ転用するに当り床板(コンクリート)が置かれ、車両や人が転落しないよう側板が張られている。
3.一般的なトラス橋と異なりポニーワーレン構造の本橋には左右の上弦材を繋ぐ上横構がない。左右の主構(トラス構造)は下弦材を結ぶ横桁が繋いでいる。
その横桁が優美な魚腹形となっている。
4.斜材はピン結合(六角の大きなボルトの外観部分)により上弦材と下弦材に接合されている。荷重の違いにより斜材の形状(帯材の有無)が違う。
5.上弦材、下弦材、端柱が一体構造であり、各端部は優美な形状である。
6.端柱の下部二か所に製造会社の銘板が損傷を受けず現存している。
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貝殻形の銘板にはCOCHRANE&Co. 1895 DUDLEY ENGLAND
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上弦材と下弦材を結ぶ斜材の端にはボルトの頭「ピン」があるので、ピン構造トラス橋
7.通行台数の増加に伴い1969年に赤羽側に人道橋が併設されたが、横桁間の中間、左右の下弦材の上にH型鋼を並べ、H型鋼は人道橋を支える長さを持たした。本橋はこれらの部分的な改造だけに止まりオリジナルを保っている。
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赤羽側の歩道橋。本体に付設されたので名前はない
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地蔵坂人道こ線橋
8.王子側には「地蔵坂人道こ線橋」が1984年に建設されたが、本橋とは自立した別構造。これらの両側の人道橋により橋梁構造が観察出来る。
9.本橋西側には線路に沿った道路があり、橋下部構造を眺められる。
3.本橋の歴史的価値
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博物館明治村に保存された登録文化財の東海道線旧六郷橋は、本橋より15年早く竣工(製造は1875年)した日本で最初の鉄製(錬鉄)複線100ft.橋梁である。しかし、1915年に御殿場線第二酒匂川橋梁へ移転、転用される際に、単線用へ横桁を短縮して幅員を狭め(主構中心間隔約7.4mから約 5.2m)、また河川と線路のずれから主構を明治村の旧六郷橋梁は複線橋を単線橋とした旧第二酒匂川橋梁を再度複線橋に戻した右75度ずらす等、大幅な改造を受けて供用された。そして明治村に展示されるに当り当初の構造に復元され展示されており、オリジナルを保ち続けたとは決して言えない。
第二酒匂川橋梁には同様な改造を受けたものがもう一本有って、これはJR東海総合研修所(旧国鉄中央鉄道学園)敷地内へ移転(1965年)。1967年に当時の国鉄より「鉄道記念物」に指定され、元の形に復元されずに現在も保存展示されている。
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JR東海総合研修所に置かれた旧第二酒匂川橋梁 左右の主構のずれは最初の横桁の位置で分かる
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十条跨線橋は、道路橋への転用と人道橋の併設という小規模な改修を受けたに過ぎず、全体形状を維持しており産業遺産として歴史的価値は高いと考えられる。
4.COCHRANE&CO.について
従来「コックレーン」としていたが「コクラン」と発音するとの事。同社のあったイングランド北西部ダドリー市(バーミンガム市の北西)の地域史誌Dudley Through Time(Peter Glews著)にはCochrane`s Legacyの章がある。同社は同市のWoodsideに在って1921年に閉鎖され、現在は街路名に名を留めるだけだが、同国で初めての赤の鉄製郵便ポストの製造、またロンドンのテームズ川を渡るウェストミンスター橋、チャーリング・クロス鉄道橋の建造など現在も使われているものがある。またイギリス産業史には、ロンドン万博の水晶宮等の鉄製品のほとんどやオーストラリアのメルボルン上水道の二万トンの鉄管を供給したとの記載があるなど、非常に目覚ましい活躍を遂げた会社だった。
5.本橋の兄弟橋がモニュメントに
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1929年に解体された旧荒川橋梁は、十条跨線橋へ、群馬県みなかみ町の利根川を渡る「大鹿橋」(1965年撤去)へ、そして川崎市幸区小倉と横浜市鶴見区矢向に跨る「江ヶ崎跨線橋」の一部として転用され、残る一連は廃棄された。江ヶ崎跨線橋は、常磐線旧隅田川橋梁として使われたプラットトラス橋と共に2009年に廃橋となったが、ポニーワーレントラス橋の一部が川崎市により「旧江ヶ崎跨線橋モニュメント」として展示されている(江ヶ崎跨線橋西交差点角)。その形態的特徴である端柱と上弦材が一体構造となった優美な部分を横約1.2m、縦1.0m切り取り、歩道角に説明版とともに設置されている。ある調査資料(*)によれば下弦材の老朽化が激しく構造物としての再利用は不可能であることが解体の過程で明らかになったとの事だ。また今後多くの市民に安全性を確保して親しまれながら歴史資料として触れられるよう、この形状寸法になったと思われる。(銘板位置も変更されている)
*江ヶ崎跨線橋200ft.プラットトラス構造的特徴と歴史的評価 五十畑 弘
6.十条跨線橋の終わりの始まり 「新王子さくら橋」へ
十条跨線橋は土木学会の「歴史的鋼橋」として選定され、登録番号はT3-013。その土木史的評価を踏まえ陳情書とは異なるが、博物館明治村やJR東海総合研修所と同じく、橋梁全体を移転存続するのが最善ではなかろうか。
この地、北区と本橋の120年余りの縁が、北区の将来への橋渡し役を担ってくれることを期待したい。そこで私案として、新たな移転設置場所について提案
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昭和6年8月1日に開業した下十條駅南口側を地蔵坂より撮影。
日傘、浴衣、薄着で暑さが伝わる。旧地蔵坂に沿い取付道路がカーブする。
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岐阜県養老鉄道烏江駅近くに展示される旧牧田川橋梁の一部。同社の前身の近鉄が残した。
明治中期に東海道線で使われた英国パテントシャフト社製。ダブルワーレントラス橋。
現在「王子さくら橋」が架けられた飛鳥山石神井川トンネル出口下流の場所である。本トンネルは石神井川の治水対策のため音無橋脇より飛鳥山直下を掘り抜き、王子駅前で直角に折れ曲がり浸水の要因となって石神井川の流路を変更するために建設された。「王子さくら橋」は王子駅前交番よりサンスクエア沿い、旧石神井川流路沿いの遊歩道をから駅南口広場、堀船、栄町方向へ向かう人の流れを導く。また、王子駅南口に向かい、飛鳥山人道跨線橋から飛鳥山公園、三つ博物館、醸造試験場跡、音無橋、王子権現、音無親水公園の観光周遊ルートの途上でもある。つまり、通勤通学客や観光客など、多くの人々に日常的に見られ、接しられる露出度の高い場所に設置しようとの考えである。
歴史的継続性、整合性の観点から、荒川橋梁、東十条駅、王子駅など東北線の経路上に置かれ違和感はなかろう。
また、「王子さくら橋」よりJR新幹線、京浜東北線、都電の車両を眺める事が出来、十条跨線橋を移転してその姿と併せての見るそれらの走行シーンは一興であり、話題となるはずである。
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石神井川右岸より上流飛鳥山方向には新幹線
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王子駅東側地図 右に南口(google mapより)
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大鹿橋 荒川橋梁の一連を群馬県水上町の利根川に昭和5年転用された。
大穴(オオアナ)、鹿野沢(カノサワ)に架橋。架け替えられ現在はない。
左岸より上流を望む。手前橋脚は清水トンネル建設に敷設された軽便鉄道用橋梁の跡か?
補足1.コクラン社の日本での活躍
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東武東上線支線越生線(坂戸、越生間)の武州唐沢駅近くを流れる毛呂川に掛かるプレートガーダ橋はコクラン社製。
明治31年に高野鉄道(堺市、堺東-長野間、西除川橋梁?)開業に輸入され昭和6年ここに移された。
また現在の近鉄道明寺線(道明寺-柏原間)大和川橋梁(30年度選奨土木遺産)は
同じコクラン社製のプレートガーダ橋であり竣工は同じ明治31年の11連の大規模なものである。
補足2.橋梁保存運動と現役のポニーワーレントラス橋
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真岡鉄道と真岡線愛護会の立てた説明板から街興しの意気込みが伝わる。
同線にはポニーワーレントラス橋が他に小貝川橋梁がある。大正2年移設。
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横浜汽車道の港三号橋梁は短縮化したポニーワーレントラス橋でその詳細な説明板に平成9年とある。
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鬼怒川温泉の黒鉄橋は上路橋に改修して転用、明治43年。
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秩父鉄道の見沼代用水橋梁、大正10年
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京浜急行の横浜、戸部駅間にある200ft.もあろうかと思える巨大橋梁。
線形が直角に曲り左右の主構は大きくずれている、昭和6年。
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10連が連なる長大な東北線鬼怒川橋梁上り橋梁、大正6年。
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西日暮里駅近くの第二日暮里橋梁は200ft.複々線三主構、昭和4年。
参考文献
1.わが国における英国系鉄道トラス桁の歴史
土木史研究 第10号 1990年6月 審査付き論文
2.明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第1報) 200フィートダブルワーレントラスを中心として
第5回日本土木史研究発表会論文集 1985年6月
3.明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報) 英国系トラスその2
第6回日本土木史研究発表会論文集 1986年6月
上記3論文共に、信州大学工学部 小西純一、東京都交通局 西野保行、日石エンジニアリング 渕上龍雄
4.江ヶ崎こ線橋200ftプラットトラスの構造的特徴と歴史的評価
日本大学生産工学部 五十畑 弘
5.鉄道構造物探見 トンネル、橋梁の見方・調べ方 小野田茂 著 JTBキャンブックス
6.鉄橋物語 日本の歴史的鉄道橋梁を訪ねて 塚本雅啓 著 鉄道ジャーナル社 発行
「廃橋される十条跨線橋の移転存続と展示を求め」
北区史を考える会副会長 有馬純雄