滝野川界隈のやま・かわ・たに
旧石神井川の変流
谷田川物語2
なぜこのような旧石神井川の流れが、いつどのような理由で現在のようにJR王子駅の所から、隅田川をめがけて東京下町低地に流れ出したのか。
これには自然現象説と人為による河流の変更説がある。
人為説では、江戸期の歴史に詳しい歴史研究家の鈴木理生氏による説がある。
正史の『吾妻鏡』には頼朝が武蔵野台地に取りついた地点である「滝野川」の地名はなく、それより一世紀以上たった時点で成立した『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』にはじめてその地名が現われるという事実である。このことから石神井川のショート・カットは、『吾妻鏡』が記録された時期と『源平盛衰記』成立の中間で起きた現象で、しかもそれは人為的なものだと推定できる。
幻の江戸100年鈴木理生(ちくまライブラリー57 1991.6.20)
自然現象説には、1996年、ボーリング調査を基に谷田川〜不忍池方向に流れていた石神井川が、縄文海進期の河川争奪により変流したとする論文が出された。
縄文海進最盛期に本郷台の崖端浸蝕に起因した河川争奪を起こし、流路を変更して台地から東京低地へと急勾配で流下した。流路を奪われた谷田川の上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層を河床に堆積させ一方、王子方向へと流出した新たな河流は河床を深く掘り
こんで峡谷状となり、現在の流路を取るに至った。
「武蔵野台地東部(本郷台)における石神井川の流路変遷」(『駿台史学』中野守久・増渕和夫・杉原重夫)
さらに、鈴木理生氏は、2003年の著作では、自然現象である河川争奪説を紹介しつつも、次の様な人為説を展開している。
旧石神井川の洪水がその河口である現在の日本橋小網町辺り(中央区)にあった江戸湊を直撃するのを防ぐために、[ある時期]つまり時期は確定できないが江戸氏・太田道産・後北条氏あるいは徳川氏時代の初期に、台地の緑を突き崩して「瀬替え」したものとも考えられる。(略)
あるいは岩槻道が成立した後に、自然的または人為的に石神井川の流路が変わったとも推察できる。
【図説】江戸・東京の川と水辺の事典(鈴木理生編著・柏書房・2003/5/15)
また、博物学者の荒俣宏氏は、理由は明らかにしていないが、大田道灌の時代の人為説を披露している。