「千川上水とは」どのようなもの?

千川上水 まち歩き 北区編

先日の「千川上水 まち歩き 北区編」で案内人を務められた秋山(JIA城北)さんから千川上水に関する投稿が寄せられましたので以下に掲載します。

「千川上水とは」どのようなもの?

「千川上水を見た」記憶があります。昭和30年小学二年の時です、豊島区巣鴨に住み始めた僕は、亡き母に連れられ練馬区関町南の親戚の家を訪ねました。西武新宿線・上石神井駅で降り、駅前を過ぎるとすぐ郊外の畑の中、点在する家々を抜け、バス通りと小川の橋を渡り、芝生を育てる畑を通って、叔母の家に辿り着くわけです。

Alwaysノスタルジー・同学年のいとこがおり、小さいながらライバル心があり、いつも胸騒ぎがするのです。都会である吉祥寺や自然豊かな善福寺池も近いと聞いていました。何よりも豊島に比べ、練馬は緑豊かで、畑もあり自然で、「のどかだな」という印象でした。大きな通り(現在の青梅街道)を渡るとすぐ橋があり、小さいが豊かな流れでした。確かスイドウバタと呼んでいた記憶なのです。そこで確かめましたら今でも「水道端」バス停があります。スイドウが千川上水だったのです。豊かに流れる春の小川は、用水路であったのです、子供ゆえに怖いくらいの流れでした。しかしこれは自然の流れではなく、人工の流れであったわけです。

平成になってからですが、西武線中村橋駅で降り、並木道である千川通りを渡り大学の先生のお宅へ何度も通いました。その並木は千川上水:昭和30年代に暗渠にした堤の名残・並木であり、千川上水に掛けられた橋の名が中村橋だったのです。

「豊島区まち歩き」で有楽町線千川駅方面を歩いた時、板橋区との区界の千川通り、そこにはこの用水路の幅が解かる地面が残されておりました。

城北地域会の見学で板橋大山の東京都健康長寿医療センター病院を訪れましたが、その前面道路にも千川上水が流れていたわけです。

わが町西巣鴨・掘割の千川上水公園には水道調整バルブが残されており、明治期に岩崎弥太郎が水道事業をはじめ上水道を復活したのです、六義園の泉水や小石川・神田、明治期の上野での内国勧業博覧会場や・下谷・浅草方面にまで水道として使用されたようです。

北区方面には、幕末期に大砲工場(現・滝野川2-6所在反射炉)を計画して巣鴨から分水し、明治期王子製紙や印刷局抄紙部などの産業用水に利用されていたのでありました。それが王子への分水です。
この度JIA城北 knit 北・練馬・板橋・豊島の四区に共通するものはと考えますと、千川上水が思い浮かびました。

時系列で千川上水を述べるには、時代によって用途と水路のインフラ目的は様々であります。今考えるに千川上水の流れていた経路は意外と重要なポイントと思う点があります。それは、現在の・練馬区役所・板橋区役所・北区役所は、まさに千川上水が開削されていたところに沿い立地しています。

(豊島区役所だけは、所在地が変更され 鎌倉街道に沿って 現在は立地しています。)でも豊島区には「千川」という地名が残されておりこの千川の流れは、尾根筋に開削されていました、石神井川や谷端川ではなく その尾根筋、水道という江戸期の当初目的から、時代が変わると農業灌漑用水や水車、明治期は・紡績・製紙という産業用水として供されているわけです。尾根筋の用水路で、城北地域は繋がっていたわけです。

江戸時代の千川上水は将軍綱吉の時代、幕府の命を受け河村瑞賢の設計により玉川上水を保谷村で分岐し本郷へ続く尾根を開削して通し、巣鴨堀割から上水路は木樋や竹樋で、白山や湯島聖堂そして根津の谷を木樋サイホンで渡し上野寛永寺まで通水したとのことです。その後上水道の役割は廃止されるなど経緯は変化します。明治期になり地図でも残っているように農業用水の役割であり、現在痕跡だけですが、王子への産業用水路だったのです。終点は北区王子の駅前公園(三角形の広場)で貯水池でありました。そこにたどり着くには石神井川を掛樋・水道橋で渡していたのでした。飛鳥山「紙の博物館」収蔵の資料でこのことは確認できます。

日本初の大規模な製紙工場をはじめ、大蔵省印刷局でお札(すかし幣)や切手の抄紙という産業の基盤となっていたのが、千川上水の用水路でありました。

※JIA城北とは、公益社団法人 日本建築家協会 城北地域会の略称です。

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