コンドル・妻木頼黄・伊藤忠太・葛西万治

滝野川界隈の建築家

■コンドル(1852-1920)
明治工部大学校の初代造家学科教授。
旧古河邸は晩年の設計です。

■妻木頼黄(1859-1916)
旧醸造試験場

■葛西万治(1863-1942)
明治から昭和初期に活躍した設計建築家。盛岡市出身。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したことなどで知られる。城南小学校卒業。工手学校(現工学院大学)造家学科教員。辰野葛西事務所の共同経営者。北区中里に居住した。
旧古河邸の書庫を設計し、古河邸の建築に合わせて旧邸から移築されている。
1863年(文久3年) – 南部藩家老、鴨澤舍の次男として盛岡市に生まれる。のち、南部藩士葛西重雄の養子となる。
1890年(明治23年) – 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業(同期に横河民輔、宗兵蔵)、日本銀行技師となる
1903年(明治36年) – 辰野金吾と東京で辰野葛西設計事務所を開設する
1915年(大正4年) – 工学博士となる
1919年(大正8年) – 辰野金吾没後、単独で建築設計事務所(葛西設計事務所)を経営する
1927年(昭和2年) – 田中實と共同経営となり、葛西田中建築事務所と改称する
1937年(昭和12年) – 単独経営となり、葛西建築事務所と改称する
1942年(昭和17年) – 逝去
参考文献:Wikipedia

■伊東忠太(1867-1954)
国際建築協会編、美術出版社発行「国際建築1954年5月号」より
生誕 1867年11月21日
(旧暦慶応3年10月26日)
出羽国置賜郡米沢 (現・山形県米沢市)
死没 1954年4月7日(86歳没)
東京都文京区
国籍 日本の旗 日本
出身校 帝国大学 (現・東京大学)
職業 建築家、建築史家
受賞 勲二等瑞宝章
文化勲章
建築物 東京商科大学兼松講堂
震災祈念堂
築地本願寺
伊東 忠太(いとう ちゅうた、1867年11月21日(慶応3年10月26日) – 1954年(昭和29年)4月7日) は、明治から昭和期の建築家、建築史家である。山形県米沢市出身。号は紅雲。位階・勲等・学位・称号は、正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民第1号。早稲田大学教授。兄に九州帝国大学医科大学学長・九州医学専門学校(現久留米大学)初代校長の伊東祐彦、叔父(父の弟)に、官僚・政治家の平田東助がいる。

目次
1 人物
2 経歴
3 栄典
4 主な作品
5 著書
6 エンタシスのギリシャ起源説
7 その他
8 親族
9 関連文献
10 脚注
11 関連項目
12 外部リンク
人物
少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた。「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残す。1943年(昭和18年)には建築界で初めて文化勲章を受章した。

■荻外荘
田端八幡神社を設計している

■中条精一郎(1868-1936)
米沢(現・山形県米沢市)生まれ。幕末の米沢藩士中條政恒の長男。東京帝国大学建築学科を卒業後、文部省の建築技師となり、建築課札幌出張所長として札幌農学校などの建設に当たった。同校土木工学科の建築学講師の嘱託も務めた[1]。1902年に東京に戻り千駄木に一家を構えたが、翌年旧米沢藩主家の上杉憲章とともにイギリスに留学(1904-1907年)、ケンブリッジ大学で建築を学んだ。

帰国後文部省を退官し、1908年に曽禰達蔵とともに東京丸の内に設計事務所を開設[1]。慶應義塾の記念図書館が最初期の代表作である。曽禰中條建築事務所はオフィスビルの佳作を多く生み出した。

晩年には「建築士法」の成立に尽力し、また国民美術協会の会頭も15年間務めた。妻の蕗江は西村茂樹の次女で、華族女学校を首席で卒業し皇后から『言海』を賜わったという才媛であり、『葭の影』の著書もある[1]。長女の百合子は17歳で小説『貧しき人々の群』を著し天才少女と呼ばれた。後の宮本百合子である。父親について自伝的作品のほか「わが父」、「父の手紙」、「父の手帳」などで触れている[1]。札幌農学校昆虫及養蚕学教室、動植物学教室、図書館(現北海道大学)登録有形文化財
リデル・ライト両女史記念館(1918年、熊本)登録有形文化財
上杉伯爵邸(1925年、米沢市、現米沢市上杉記念館)登録有形文化財

顧問
旧山形県庁舎及び県会議事堂(1916年、山形)設計:田原新之助(中條は顧問として参画)重要文化財

以下、「曽禰達蔵・中條精一郎建築事務所作品集」(国立国会図書館所蔵)より
(主なもの)
慶應義塾大学図書館(1912年、東京都)重要文化財
東京海上ビル(1918年、現存しない)
旧日本郵船神戸支店ビル(1918年、神戸市)
郵船ビル(1923年、東京都。現存しない)
旧鹿児島県庁舎(1925年、鹿児島市。玄関部のみ現存)
小笠原伯爵邸(1927年)
旧三井銀行小樽支店(1927年、小樽市)
慶應義塾大学病院予防医学教室(1929年、東京都)
明治屋ビル(1933年、東京都)
講談社ビル(1933年、東京都)
慶應義塾大学日吉キャンパス(1934年、横浜市)
岩崎家熱海別邸(1935年、熱海市)
三井住友銀行大阪中央支店(1936年、大阪市)
出典:Wikipedia
本郷に住まいがあった。
宮本百合子の父
曽根中条建築事務所を経営した。

■佐野利器(1880-1956)
山形県西置賜郡荒砥村(現:白鷹町)の旧家の四男、山口安平として生まれた[2]。生家(山口家)は大地主であったが次第に没落し、また実父が早くに病死したため、米沢中学在籍時に天童織田家の藩士だった佐野家の養子となった。(旧制)第二高等学校を経て東京帝国大学建築学科に進学。建築学を辰野金吾に学んだ(辰野は佐野が3年のときに辞任)。

卒業後、大学院に進学及び同校講師を経て助教授。この他、国技館や東京駅の構造設計を担当した。1906年(明治39年)、サンフランシスコ大地震の被害調査のため、アメリカに出張。鉄骨煉瓦造の丸善書店(1909年(明治42年))の構造設計を行った[3]。

1911年(明治44年)よりドイツに留学、欧米を回って1914年(大正3年)4月に帰国。1915年(大正4年)、教授に就任。「家屋耐震構造論」(1915年)で工学博士号を取得。同論文(翌年刊行)は、日本の建築構造学の基礎を築いたものと評され、また建築構造の耐震理論構築としては当時世界初の試みである。

1915年(大正4年)、内務省明治神宮造営局参事・参与を務め、社殿や宝物殿の建設、外苑の整備に関与した。また、1921年(大正10年)、兼務で宮内省技師に就任した。
この間、建築法規の制定運動を起こし、1919年の都市計画法(旧法)と市街地建築物法(建築基準法の前身)の制定に貢献した[4]。

1920年(大正9年)、日本大学が創立した高等工学校の校長に就任した(同校は1928年(昭和3年)に日本大学工学部となり、佐野は部長に就任)[5]。

1922年、雑誌に発表した都市型地震に関する災害防止策の中で、被災者数約10万と試算した(翌年起こった関東大震災の死者・行方不明者は10万5千人余と推定されている)[6]。

1923年(大正12年)9月1日に大地震が発生すると、内務省から救護事務官の辞令を受け、救護バラック建設の指揮に当たった[6]。

9月末には、内務大臣後藤新平が帝都復興院を置いて総裁に就き、その依頼で佐野も帝都復興院理事・建築局長に就任し、関東大震災後の復興事業・土地区画整理事業を推進したが、これに消極的で拙速主義を取り、予算を削減しようとする副総裁宮尾舜治、理事・計画局長池田宏らと対立した[7]。

また、東京市長の永田秀次郎の依頼により、1924年(大正13年)から東京市建築局長を兼任し、都市不燃化の一環として100を超える鉄筋コンクリート造の復興小学校建築に当たった[8]。

不燃建築(RC造)の建設を促進するため、融資を行う復興建築助成株式会社の設立(1926年、民間及び東京市・横浜市が出資)にも尽力した。この復興建築助成株式会社は、自主的に耐火建築を行おうとする市民に建設費を融資し、耐火建築化を促進する建築会社を指し、日本初の耐火建築助成を目的とした公的資金融資の実例となった[9]。

昭和初め頃、東京帝国大学建築学科は教授の定年退官が続いたことなどで体制が整わない時期であったが、佐野は清水組の経営に関わることになり、定年前に退官した。1929年(昭和4年)-1932年(昭和7年)に清水組の副社長を務め、建設会社組織の近代化を図った(退官後も東大では1941年(昭和16年)まで講師を務めた)。同社副社長を務めた最後の年である1932年には、新京国都建設計画主要プランナーの一人となり、かつて道半ばで挫折した東京改造計画「帝都復興」で培った構想を多く採り入れたものとなる。

清水組退社後は(従来から務めていた)日本大学工学部長、東京工業大学教授の職に専念した(いずれも1939年(昭和14年)まで)。

戦後は復興建設技術協会協会長などを務めた。
大和郷(1922年):六義園西側一帯(現・文京区駒込六丁目)住宅地開発[12]

大正 10 年頃に弥太郎の長男岩崎久弥男爵が、東京市の発展のためにこれらの土地の開放を思い立ち、六義園は囲いを巡らして保存し、その周辺地域の都市設計を佐野利器に依頼し、何度が分譲したという。富豪としての社会的責任を果たそうとする久弥の情熱と理想の文化都市を作らんとする佐野の見識が結びついて優良住宅地大和郷の原型がつくられたとある。
「六義園を囲む大和郷における共同住宅新設による周辺地域への生活権侵害」 水島 信 建築家(ドイツ連邦共和国バイエルン州建築家協会)

■ウィリアムヴォーリズ(1881-1964)
ウィリアムヴォーリズ事務所
聖学院を設計し

参考文献:「日本の近代建築の歴史」村松貞次郎 NHKブックス